ヨシュア2:1−14/フィリピ4:1−3/ルカ8:1−3/詩編97:7−12
「そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(ルカ8:3)
今日お読みいただいた聖書の箇所にはどこでも、今日の礼拝主題に相応しく女性たちが登場します。
ヨシュア記にはラハブが登場します。彼女はイスラエルの斥候を匿いそれによってイスラエルが難攻不落と謳われたエリコを攻略することに繋がりました。このラハブはマタイ福音書にあるイエスの系図の中にその名前が出て来ます。「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」(マタイ1:5)と書かれているラハブがそうだというのです。新約聖書ではあと2箇所にラハブが登場し、そのいずれも今日お読みいただいた斥候を匿うことで取り上げられています。一つはヘブライ人への手紙11章31節「信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。」、そしてもう一つはヤコブの手紙2章25節「同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。」。ヘブライ書は「信仰による救い」という主題にラハブの話を引き合いに出しています。ラハブを「信仰の人」と捉えているのです。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」(ヨシュア2:11)というラハブの言葉にそれが表れています。ヤコブ書はラハブが斥候を匿い送り出したというその行為に関心を寄せ、「行いを伴った信仰」の典型としてラハブを「義人」としていると言えます。おもしろいことに旧約聖書にはラハブその人のことはこのヨシュア記にだけしか出てきませんが、新約聖書では「信仰の人」「義人」としてそれぞれの手紙に出てくるわけです。しかも遊女だった。
フィリピの手紙ではパウロを助けたエボディアとシンティケという二人の女性を取り上げます。その他にもパウロの働きには多数の女性協力者がいたことが知られています。
そしてルカ福音書では、12弟子と並んで多くの婦人たちがイエスと行動を共にしていたこと、そして特に「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(ルカ8:3)と特筆されています。
というように、父権制社会と言われ、ほとんど疑いようもなく「聖書の世界は父権制なのだ」と確信している人にとって、実は聖書には女性が活躍している箇所が多いということが新鮮な驚きに繋がるかも知れませんし、だからこその「女性の働き」という礼拝主題なのかも知れません。しかし、そういうちょっとこびを売るような態度ではなく、与えられた聖書の箇所から思うところを述べさせてもらうと、わたしにはこの主題で考えるべき別の問題があるように思えるのです。
良く「歴史は英語でHistoryと言い、それはHis Story、彼の物語という意味合いなのだ」と言われます。だからこそちょっと見識のある人たちはHis StoryではないHer Story、彼女の物語を構築もしくは再構築する必要があると仰います。
わたしもその通りだと思います。そして構築できるだけの材料をしっかりと見つけ出すことが重要になるのです。ところがそれは相当に大変です。男性女性の問題でという以上に、消されてしまった歴史、実際にあった事柄が無かったものにされてきた歴史がやはりあるからです。わざわざ「女性の働き」という礼拝主題を掲げて聖書を読むということは、聖書の世界が父権制社会だという事実を知ることとか、だからそうではない女性たちの活躍があったのだということを再発見する以上に、生身のわたしが今生きているこの時点においても、消されてしまった歴史が多数存在するということを、せめて憶えておく、感じておく必要があるということに気づくためなのではないか、と思うのです。
例えば今年2023年は1923年9月1日に起こった関東大震災から100年です。それを憶えて9月1日がいわゆる「防災の日」に指定され、「地震や風水害などさまざまな災害に対する意識を高め、心構えや対策準備をしておきましょう。」などと呼びかけられるのです。しかしこの日は別の歴史を持つ日でもあります。それはこの大震災を契機に起こったいわゆる「朝鮮人大虐殺」です。そんなことは「防災の日」のキャンペーンでは全く触れられません。わが国の政府もずっと「事実関係を把握できる記録が見当たらず」と言い続けています。
歴史上の出来事をまるでなかったかのように扱うことはとても簡単で、しかも大変便利なのでしょう。まんまと歴史上から抹殺することができれば、未来永劫安泰なのだ、と。しかし、ひとたび被害者側に視点を移せば、例えば虐殺された側にとっては「虐殺」がそもそもの被害であり「歴史上の抹殺」はそれ以上の2次被害でしょう。そんな歴史からの抹殺をゆるし続けるということは、わたしたちが永遠に加害者としての責めを負い続けるということになります。
キリスト教会は2000年に亘って異端正統論争が繰り返されてきました。異端と断じられれば歴史から抹殺されました。実際に火あぶりで処刑された人も多数に及びます。そのうちの僅かは犠牲者が有名人だったために「虐殺された」「火あぶりになった」という事実が辛うじて歴史に残りました。
100年前、デマによって引き起こされた朝鮮人虐殺事件の間、この国のキリスト教会はそれにどう向き合ったのでしょう。残念ながら資料がなかなか見つからないそうです。時のキリスト教界に、日本社会と迎合する姿勢はあっても、社会と真摯に向き合い聖書によってそれを糺す気概があったのかどうか、とても重要な論点ではないかと思います。
消されてしまった歴史を掘り起こす。父権制社会と信じられている聖書の時代に女性の働きが幾つも書き留められていることを読み、わたしたちの現実の日々の中で、歴史の虐殺も抹消もゆるさない感性を揺り起こされたいと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。力ある者が歴史を作り替え書き換える、それも古の話ではなく現代に於いて日々起こっていることに目を開かせてください。わたしたちの主が十字架で殺されたことが歴史から抹殺されずにわたしたちの前に届けられたことを心から感謝します。その視点を見失うことなく、社会と真摯に向き合う勇気を与えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。